2010年1月発行:会報第9号に掲載された、中山幸二会員の「ケルン滞在記」を掲載いたします。
2008年10月1日から2009年9月中旬まで約1年、在外研究でケルンに滞在しました。かつて1990年10月から1991年12月末まで1年3ヵ月滞在して以来 2度目のケルン長期滞在です。当時は、東西ドイツ統一からEC市場統一へ、そして新たな欧州連合EU憲法に向けたマーストリヒト条約締結の時期で、首都移転決議も含め政治的経済的に大きな変革の時期でした。今回は、その後約20年を経たドイツの生活実感を体験する良い機会でした。私の主たる目的は、ドイツ民事司法の全体像と現実の機能を日本と比較しながら調査検討することにありますが、副次的な目的として、司法制度の背景をなすドイツの社会的文化的事情といったものを改めて体感したいという狙いがありました。ここでは、ケルン・アルムニの余興として、お硬い話を離れて、もっぱらケルンの生活を中心に雑駁な思い出を<現在形で>語らせていただきたいと思います。
ゲストハウス
前回の滞在は乳幼児含む家族5人でLindenthalのBehringstrasseにあるケルン大学ゲストハウスに入りました。小さなKanalが傍にあり、子供たちが白鳥や水鳥に毎日パン屑をあげて楽しんでいました。今回はライン川に近いMarienburgのゲストハウスに居住しています。ボンに近く外交官が多く住んでいたのでしょう、広い庭と邸宅が並ぶ閑静な住宅街です。今回は独り住まいですので、週末はデジタルカメラ片手に 近所を散歩して、異国情緒豊かな住宅街やライン河のボートハウス、さらにはMilitärringに残るプロイセン時代の要塞Festungなどを散策し、画像を日本に送信しています(インターネットやSkypeなど通信手段の飛躍的発展が前回と大きく異なる点です)。ケルン市街には同心円状に半円の内側RingとGürtelさらに外側のMilitärringの3本の基幹環状線が走っていますが、市壁についてもローマ時代の市壁と中世の砦壁、そしてプロイセン時代の要塞壁の三重構造になって残っていることは、今回初めて知りました。新鮮な喜びです。地図を頼りに、Mittelalterliches Kölnのスポット、StadtmauerやBayenturm, Hanentor, Severinstorなどもすべて踏破しました。面白いことに、石造りの壁や砦の中は展示室や地区センターになっていて、今でも現役の集会場として使用されています。Ulrepforteの砦は、カーニバルの先頭を飾る青い旗のグループBlaue Funkenの本拠地となっています。
ゲストハウスには、諸外国から常時10人くらいの ゲストが入れ替わり滞在しています。最近は中国からのゲストが多いようです。大晦日には上階に住む神戸大学の嶋矢先生と一緒に、ライン河にかかるHohenzollen橋の上で花火を見ながら新年を迎えました。2月には青山学院の手塚先生、法政大学の大中先生が入居し、日本人研究者が4人となりましたので、歓迎会を開き懇親を深めています。
カーニバル
Karnevalと言えば、ケルンは特に有名ですね。近頃は、近隣のオランダやベルギー、さらにアメリカなどからも多数の観光客が殺到します。南独の宗教色の強い比較的地味なカーニバルに比べて、ナポレオン占領下の鬱憤を晴らすかのような無礼講のお祭り騒ぎは、今やライン河の風物詩です。特にケルンでは春夏秋冬のほかに五番目の季節があると言い、ケルン人の気質をも特徴づけています。11月から2月まで4カ月にわたりお祭りの雰囲気が街を覆い、毎晩どこかで賑やかなSitzungが開かれています。公式には11月11日の11時11分にカーニバルが始まることになっていて、Heumarktに仮装した人々が集まって行列を始めます。奇妙奇天烈、魑魅魍魎といった仮装集団が跋扈して 怖いくらいです。この日は若い学生たちはもちろん 朝から仮装して泥酔していますので、大学の講義も 事実上休校となります。本当かと思い、外国人留学生に誘われ、夕方のSchuschke教授の強制執行法の講義を覗きに行ったところ、大教室でわずか4人の学生を相手に講義をしていました。元高裁判事でHonoralprofessorの教授は、とりわけ厳格で知られています。教室に入ってしまった以上、名乗らないわけにはまいりません。挨拶すると、遠く日本からの聴講者として歓迎してくれました。これを契機にSchuschke教授と知り合い、次週から毎回、冬・夏の両学期、教室で付き合うことになります。
クリスマスの4週間前からは各広場にWeihnachtsmarktが開かれ賑やかです。クリスマス市は南ドイツが特に有名ですが、近年ではケルンも人気があり、週末には近隣諸外国からバスツアーで多数の観光客が訪れ、ホテルは通常の3倍の値段となっています。市の観光局も力を入れ、Dom Platz, Alter Markt, Heumarkt, Neumarktなど7つの公式Weihnachtsmarktenに、それぞれエンジェルやメルヘン、中世職人など各テーマを掲げたマルクト作りで 特徴を出し、訪問客を魅了しています。私も熱いGlühweinを飲みながら、全てのマルクトを制覇すべく巡っています。ここで知り合ったオランダの日系船舶会社会長と意気投合し、春にはロッテルダムに招待されました。
前回ケルンに滞在した1991年には1月15日に湾岸戦争(Gorfkrieg)が勃発し、2月のカーニバル行事は中止となり、有名な山車と行列の行進(Zug)を見ることができませんでした。今年は、日本からも家族2人が駆けつけ、2月のRosenmontagをピークに思う存分堪能しています。この異常な空気の中では、普通の服装をしているとかえって異様に見られます。私も日本から取り寄せた全身ペンギンのコスチュームを着て、大学と市街を闊歩しています。これが結構人気で、愉快な友達もたくさんできました。
7月初めにはクリストファーの日(CSD)にちなんでゲー・パレードが開催されますが、これもカーニバルの雰囲気に似た行事となっています。日本を含めゲイや支援者が諸外国から集まり、けたたましい音響とともに山車と行列が市街を練り歩きます。これも市の観光局の公認行事となっており、自由都市ケルンの真髄を垣間見た思いです。
CONNE
ケルンには10年ほど前から、Cologne Nippon Netzwerk e.V. (CONNE)という団体があります。Japanologie専攻の学生やOBたちを中心として設立された団体で、法人登記もされています。2000年3月に20人ほどが日本を訪れ、代表が当アルムニ会の石川会長とも会談しています(本会報2号2頁参照)。日本に関心のあるケルン人たちとケルンに留学ないし滞在している日本人たちの交流の場として、毎月Stammtischを開いています。
私は、日本にいるときにインターネットでたまたまこの団体の存在を知り、入会を申し込みました。すると、CONNE理事会から直ぐにStammtischの案内が届き、原則として毎月第1月曜日の夜8時からケルン大学近くBB Süd 駅ガード下の“OASE“というKneipeで開催されるので、歓迎しますいうことでした。10月1日に到着して間もない10月6日に参加して 以降、毎月出席しています。12月には大学理事会室隣のDozentenzimmerを借りてクリスマス・パーティ、4月には旧Studentenverbindungのユニークな建物を借りてのグリル・パーティも開催され、1年間に計14回参加しました。一時期は出席者が3人~5人と減じていましたが、私がインターネットのコミュニティなども使って積極的に声をかけたこともあり、常時15人から多い時には24人集まるようになっています。この中には、日本から研究者や留学生としてケルンに滞在している人のほか、ワーホリや語学研修で滞在している若者も多数おります。また、日本に留学や旅行した経験のあるドイツ人や、これから日本に研修や留学 予定の者が参加しています。日本の音楽家や画家、 サッカー選手も加わり、さらにモンゴル人や台湾人も加わり、多様性のあるコミュニティを形成しており、回を重ねるたびにお互い気心も知れ、有益な情報交換の場となっています。日本に帰国後も交流を続け、すでに4人のケルンの若者と東京で会っています。
Auslandsamt
ケルン大学国際センター(Akademisches Auslandsamt der Universität)では、近年、KölnAlumni-Weltweitの部局を設け、世界に散らばる同窓生に連携を呼び掛けるとともに、Gastwissenschaftler (international scholor)の担当部局を設け、国際交流に力をいれています。私も研究滞在の計画確定以降、受入れ教授を介して担当のMüller氏を紹介され、ゲストハウスの手配から、市内交通機関(バス・市電)KVB定期券の手配、さらには各種コンサートや展覧展への招待など、多数の企画でお世話になっています。21世紀を代表する前衛画家Richterの絵画展やプロイセン国王のシャンデリアが飾られた地下下水処理坑、ボンの歴史博物館など、珍しい場所にも諸外国のゲストと一緒に案内してもらいました。1月初めには、学長主催のEmpfangが開かれ、各学部の客員研究員やDAADの留学生など、150名ほどが参加して交流を深めました。最近では特に 中国・インド・アフリカからのゲストが増えていると感じます。
Alumniの担当者Mentrup女史にも何度か会い、日本のアルムニ会のことも伝えています。日本からの交換留学生に向けて、日本語によるアルムニ会への入会案内をAuslandsamtからメール添付で送信させてもらいました。日本との交換留学や語学研修の協定校は最近増加し、現在10大学に及んでいるとのことです。2007年,2008年にKölnAlumni-Weltweitのサマースクールが開かれ、「環境問題」などをテーマに世界各地から同窓生が集結しましたが、このたびDAAD からの助成が認められ、2010年と2011年に同様の企画が持たれるそうです。次回のテーマは「メディア研究」が予定されています。
研究所
私の研究滞在先は、法学部のPrütting教授が主宰 する手続法研究所(Institut für Verfahrensrecht)で、大学本館(Hauptgebäude)4階にあります。前任者がドイツで初めて訴訟法の研究所を設立した故Baumgärtel教授で、日本から多数の民事訴訟法研究者が留学しています。隣がPreis教授の主宰する労働法社会法研究所で、2000年までHanau教授が所長を務めておりました。この二つの研究所の間に“Japan-Zimmer”と呼ばれる日本法研究室があります。約35年前に当時の日本政府の肝いりで国際交流 基金と有斐閣から多数の日本法の専門書、法律雑誌と判例集が寄贈され、日本との交流の深いBaumgärtel教授とHanau教授の協力によりこの研究室が開設されたと伺っています。同時に、いわゆる日独基金Ja-De Stiftung(Förderverein japanisch-deutscher Kulturbeziehungen e.V.)も設置され、その支援により“Japanisches Recht”シリーズの叢書が刊行されています。当ケルン・アルムニ・クラブの会員の中にも、Japan-Zimmerに机を得て、ここを拠点に研究された方が多数おられると思います。私もその一人です。Hanau教授は現在でも毎週2回ほどJapan-Zimmerに来られ、ここで学生助手とともに労働法体系書の 口述筆記をしておられます。書棚には、石川明先生を囲んでPrütting教授とHanau教授の並んだ写真が今も飾られております。お蔭で私も年の差を越え親しくお付き合いをさせていただいております。小塩節元日本文化会館館長のエッセーや明治政府遣欧使節団実録などはHanau教授から教えていただき、現在のケルン事情と比べつつ読んでいます。しばしば、MensaやE-Raumに同行し、時には寿司屋やモンゴル料理、さらに自宅にも招待され交遊しています。
私の前回の滞在中、すでに判例集や法律雑誌の新しいナンバーが滞っていましたので、年来の友人である判例タイムズ社の浦野編集長に依頼して、最新版の判例集として判例タイムズ誌を寄贈してもらうよう手配しました。以来、最新号が毎月届くようになっています。数年前、社屋の移転に伴い途切れておりましたが、今回また依頼して復活させております。日本からの 研究滞在者にも日本の最新法律動向を知るうえで幾許かの役に立っているのではないかと思います。研究所には日本の大学から多数の法学系紀要が届けられ、書棚が満杯になっています。私の滞在中はどうにか 整理しておりますが、今後の課題です。
蔵書の一つに、18年前Ja-De Stiftungの助成を受けて日本で出版されたGötze氏の『独和法律用語辞典』があります。彼は25年前に日本に留学して日本法を学んだ法律家ですが、研究の傍らコツコツと法律用語を集め辞書作りをしていました。当時、大学院生であった私も手伝いましたが、対訳語の選択は容易ではなく、暗礁に乗り上げました。しかし彼はその後もドイツで作業を続け、遂に辞典として出版に漕ぎ着けました。研究所には現在、日本のほか、韓国、中国からも留学生が来ておりますが、これら漢字圏の若手研究者が いずれも母国でこの法律用語辞典を活用していたとのことでした。漢字の読み方は異なりますが、ドイツ語からの漢訳が参考になるということで、意外な需要の広がりでした。Götze氏は、その後もシンガポールで弁護士業の傍ら作業を続け、15年かけて独力で『和独法律用語辞典』を刊行しました。根気のいる地道な作業に頭が下がります。これもケルンの研究所に寄贈してもらいました。今さらに独和の改訂第2版を用意しています。初版の2倍の厚さです。シンガポールから依頼を受け、私もドイツの現行法令リストの邦訳に 協力しております。間もなく刊行されることでしょう。
ドイツの民事訴訟法学会の会長を長年務めるPrütting教授の下には諸外国から多数の留学生が集まり、国際色豊かです。グルジアとの司法交流も始まっています。現在、ロシア3名、韓国2名、中国2名、ギリシャ、ブラジル、アルゼンチンのDoktorandがおり、日本、韓国、トルコの教授たちも研究滞在しています。学期中は研究所の若い同僚と毎日Mensaに 行き、昼食を共にしつつ交流を深めています。とくに中国・ギリシャの留学生とは意気投合し、しばしば議論し彼我の文化や歴史を比較しながら親しい交友関係を築いています。将来は、彼らと共同の国際セミナーやシンポジウムを開催できることを夢見ています。南独出身のPrütting所長は陽気で親しみやすい人柄で人望があり、研究所では毎日のKaffeepauseのほか、AssistentenやStudentenhilfskräfteなど各スタッフとゲストの誕生日ごとにパーティーが開かれ、Doktor論文の合格祝いや年末のWeihnachtsfeier、さらに我々東アジア人による東洋式新年会等も含め、頻繁に祝宴が開かれています。このほか、学期休みの10月初めには毎年、スイスやオーストリアなど外国に出かけ懇親合宿を行っています。9月中旬に帰国する私のため、7月末に研究所あげてKoblenzからEifel山地、さらにMosel川にAusflugを行い、懇親を深めました。
法学部では毎年夏、各研究所対抗のサッカー大会が開催されます。今年は8月1日に開催されました。各チームに伝統のユニフォームがあります。わがチーム名はAdvocati Diaboli、「悪魔の弁護士たち」という勇ましい名前です。18年前に私も出場しましたが、今回は年齢からして危険ですので、事前に毎日ライン河畔を1時間走り込み、試合に備えました。一次リーグ5試合のうち出番は5分だけでしたが、若者に交じり燃え尽き、一生の思い出ができました。
大学改革と法曹養成改革
ドイツでも今世紀に入り、大学改革や法曹養成改革が進められています。1999年から始まったボローニャ・プロセスは、ヨーロッパの大学の国際競争力を高めるために2010年までに統一的な質を保証した大学圏を作ることを目指しており、数年毎にその達成度をチェックしながら段階を追って進められています。これに応じて、各国の大学が、学修課程と学位の構造を共通にして、学修プロセスの互換性と学生の移動性を高めるよう、教育システムの大改革を進めています。ドイツの従来の学位DiplomやMagisterは、BachelorとMasterの二本立てシステムに取って換わりつつあります。文学部(Philosophikum)や経済学部(Wi-So Fakultät)では新制度の下、Magister登録の学生が飛躍的に増大しています。しかし、法学部や医学部、教育学部といった国家試験を前提とした教育システムを基調とする分野では、3~4年のBachelor課程だけで卒業しても法曹や医師の資格社会に適合せず、社会の需要に適合しないのではないかとの見方も強く、改革には根強い抵抗があるようです。
しかし、EU内の自由移動の原則により、ドイツの法曹制度も大きく変貌しつつあります。20年前にケルン大学に設置された国内初の弁護士法研究所(Institut für Anwaltsrecht)では、ちょうど節目の記念シンポジウムを開き、ここ20年の劇的な変化を明らかにしています。連邦憲法裁判所の一連の違憲判決により、もはや従来のドイツ独自の弁護士法の規律(分属制、広告禁止等)は大きく修正を余儀なくされています。英米系の大手ローファームも進出しています。ヨーロッパの法曹資格の統一化に伴い、ドイツの法曹養成制度自体も自己改革しつつあります。従来の司法試験の枠組みが変更され、大学の法学部の役割にも変革の波が押し寄せています。従来と異なり、司法試験の一次試験のうち30%は各大学の成績がカウントされ、州の行う国家試験が70%の割合で合算されることになりました。そのため、ケルン大学の法学部でも、必修科目と特定の選択科目については厳格な採点と試験管理が行われるようになっています。それらの科目については、教室でも出席者が多く、試験前には大変ナーバスになっています。Zwischnenprüfungと称する進級試験のような制度も導入されました。大学の中にPrüfungsamtと称する部局も設けられ、受験登録手続が行われます。現在は過渡期のため、一旦受験し単位を取得した科目についても、より良い成績を収める機会を保障するため、再受験を認めるという特例措置も採られています。司法試験の受験回数3回制限も、 若年者についてはカウントから外す等、若年者を優遇する政策も採られているようです。他学部では、試験に追われる新制度の下で、学生の心理的不安が大きいとして、学生主体の反対運動やシンポジウムも見られ、学内の説明会や相談会が頻繁に開かれています。
ドイツでは従来、大学の授業料が無料でしたが、新たにStudiengebührという制度が導入されました。ケルン大学では、昨年から学期ごとに履修登録の料金として500ユーロ、これに学生の福利厚生の費用として200ユーロを加えた700ユーロが徴収されるようになりました。制度導入に対しては激しい抗議活動も展開され、反対学生による大学理事会乱入や学長室占拠、授業ボイコットなどの反対運動も展開されています。弁護士の呼びかけでの授業料不払い運動もあり、憲法裁判所への違憲訴訟も提起されています。大学は、新たな財政収入増を学生に還元するため、特別講義や先端的授業の設置、国家試験対策の補助教員採用など積極的な施策を講じています。また、学生の福利厚生として、学生食堂Mensaの質的向上やNRW州内の公共交通機関の無料パスが導入されています。
このほか、国境を越えた学生の移動も促進されており、ケルン大学2年とパリ大学2年の履修で両大学のダブル・デグリーを与えるシステムや、エラスムス・ムンドス計画による外国大学学修への奨学金制度も 活性化しつつあります。
日本学生のサマースクール
日本でも今、司法制度改革が進められ、その担い手たる法曹の養成システムについても法科大学院制度の導入や司法修習の短縮等大きな変革が進行中です。国際化も課題の一つです。9月初めに、かつてHanau教授の下で学位を取得した米津先生の引率で、中央大学の法科大学院の学生グループがケルン大学を訪れました。労働法を中心にオランダ・ドイツの社会事情と法実務を学ぶことが主目的です。私も、受入れ側のHenssler教授の依頼により、ドイツの司法制度の現状について簡単なレクチャーをして協力しました。グループに同行し、日本でも有名なLeverkusenの医薬品メーカーBayer本社を訪問し、法務部の機能や戦略を聞くことができました。一行は、独日労働法協会事務局長のHenning弁護士の献身的な尽力により、Düsseldorfの労働裁判所や渉外法律事務所の見学、AachenやMaastrichtの国境を越えた法律事務所の連携活動の状況なども知得しています。集中的なセミナーとともに、元学長Hanau教授のケルン市内の案内があり、夜にはドイツ私法学会会長のHenssler教授、ドイツ民事訴訟法学会会長のPrütting教授らも交え、老舗のBrauhaus Sionでの会食も催され、学生にとっては贅沢な国際経験であったと思います。Düsseldorfの法律事務所で実務研修を行っている同志社大学の 法科大学院修了生にも2人会いました。Marutschke教授の引率による前年の欧州セミナーの経験者ということです。これらの活動が小さな種蒔きとなり、将来、彼らが国際社会で活躍するという形で結実することを期待しています。
ドイツ人の日本観
最後に、ここ20年のドイツにおける日本のイメージの変化について、私なりの若干の感想を述べてみたいと思います。
前回滞在した時は、日本のバブル経済がちょうどはじけた時期でした。日本出国時には絶頂期で、2年前に買った小さな分譲マンションの査定価格が1千万円値上がりし、さらに1ヶ月で200万円上昇するという狂乱状態でした。このバブルが半年後に弾け、帰国時には地価が急激に下落し、やがて日本経済が音を立てて崩壊していきました。
当時のドイツ人の日本観は、戦後の経済復興から急成長を遂げ、欧米にも進出してドイツの基幹産業まで脅かす存在となったハイテクノロジーの国で、経済ばかりが突出したイメージが強かったのではないかと思います。閉鎖的な通商政策と働きバチの如き猛烈社員と労働慣行に対する違和感も強く、エコノミック・アニマルと揶揄されていました。反面、東洋の奇跡・日本に対する関心も高く、日本的経営(年功序列と滅私奉公、系列と品質管理等)の特長も認識され、伝統的な日本文化(茶・華・能・墨・漆・柔道・剣道等)も相当浸透していました。もっとも、現地のテレビや映画に登場する日本人は、黒縁の眼鏡をかけ、胸にカメラを3つもぶら下げ、やたら頭を下げて、いつもニヤニヤ笑っている姿や忍者が典型でした。他方、日本車やカメラの性能には定評があり、小鹿物語など日本アニメの名作がテレビで放送されていました。日本企業も社会貢献に努めてイメージアップを図っており、 娘の通っていた現地の小学校では、全児童にトヨタから黄色の雨具ポンチョが寄贈され活用されていました。大学ではJapanologieを専攻する学生も多く、市内のStadtsparkasseの窓口や保険会社にも日本で研修経験のある者がおりましたし、法律家にも日本語を話す者がかなりいて、独日法律家協会(本部Hamburg)のNRW支部の例会が頻繁に開催されていました。児童向けの日本語補習教室が市内の小学校を借りて週1回開かれ、国際結婚して現地に居住する夫婦の子どもと一緒に我が家の子どもたちも通いました。日本文化会館のホールで舌切雀の芝居や歌の発表会も行いました。
バブル崩壊後の「失われた10年」を経て、今回約20年ぶりのドイツでは、同じアジアの中国やインドへの関心が著しく高まり、その反射的影響として相対的に日本の位置が低下していることをしばしば実感させられます。ドイツ自動車産業が逸早く中国の市場に食い込み、ケルン郊外やルール鉱業地域の廃鉱となった鉱山施設が技術とともに中国に売却移転されている現状を目の当たりにし、また、大学内で見かける中国人留学生の激増を見るにつけ、明治維新後の急激な近代化と西欧化を目指した日本の姿を重ねてしまいます。韓国文化はこの間すでに定着し、柔道と並んでテコンドーが普及しています。ヒュンダイやサムスンの電気製品や自動車も相当のシェアを占めています。他方で、日本研究の講座は志願者が減り、Japanologie研究所も多くの大学で極東アジアの一部局に格下げされる傾向があります。昨年来の世界的な金融危機と経済不況の影響の下、ケルンを本拠地とするトヨタF1チームの撤退も印象的です。
もっとも、日本文化への関心という点では、昔とは違った新たな動きが感じられます。書店にはドラゴンボールやワンピースなどの“Manga”が多数並び、もののけ姫やポニョのアニメも人気です。漫画の全国コンクールが、日本人の審査員をゲストに、ケルンで開催される旨のポスターも見かけました。デュッセルドルフで毎年開かれるJapan-Tagには、アキバ系ファッションとも言われるアニメ風のコス・プレ衣装を 纏った若者がドイツ全国から集まります。8月に開かれたゲーム・メッセでは50万人の来客を集め、Messe会場だけでなくオープンのRudolfplatzやNeumarktの特設会場でもWiiやカラオケに人だかりができていました。もちろんデパートではソニーやパナソニックのオーディオ機器が人気ですし、“Muji”(無印商品)が割高にもかかわらず高品質として普及し始めています。市内あちこちに(本来の寿司とは異質の)Sushiの看板が見られるようになりました。ポケモンやテレビ・ゲーム、ニンテンドウは、もはや世界中の若者世代の共有財産になっていると言ってよいでしょう。この分野での日本の技術と創造性には一目が置かれているように思われます。どうやら、これらは日本独自の文化というより、もっとグローバルな無国籍の混合文化になりつつあるようです。
多くのドイツ人にとって、サッカー観戦はもはや 生活の一部になっています。ケルンの隣町レバークーゼンのチームは強豪で、ホームゲームとなると老若男女が町をあげて応援に駆けつけます。スタジアムは まさに町の社交場です。ケルンも地元FCの熱狂的なファンで有名です。試合日には朝からお祭り騒ぎで、Neumarktから特別列車が多数増発されます。かつては日本人初のプロ・サッカー奥寺康彦選手が活躍し、今でも年配のFCファンと話していると彼の名前が出てきます。日本のサッカー界とも昔から縁が深く、Jリーグ立ち上げの際にも日本の協会代表が視察に訪れ、クラブシステム・芝生・技術などを参考にしたと聞いています。今でも交流があり、下部組織に日本人コーチがおりますし、日本人の若手選手が練習参加しています。最近立ち上がった女子チームにも日本人選手が加わっています。全国のブンデスリーガに、今日では日本人選手が複数活躍しており(小野・長谷部・高原・稲本などの名は若者たちの間でも知られています)、この点でも日独の文化が接近してきたといえましょう。
2月には、体育大学で恒例の日体大武道学科の集団演技があり、毎年大好評を博しています。100人を超える学生が柔道・剣道・弓道・合気道・相撲等の実技を披露し、勇壮な太鼓や伝統的な田植踊りも見せてくれました。フィナーレの盆踊りには、受入れ側の学生等も加わり、くつろいだ雰囲気のなか笑顔が溢れ見事な国際交流となっていました。実技には言葉を超えるコミュニケーション機能があると改めて実感しました。観客席には、国際結婚しケルンに居住する旧知の夫婦や日本語教室の知人が多数駆け付けていました。日本コミュニティの社交の場の一つとして、毎年楽しみにしているとのことです。
Hanau教授への叙勲を契機として、デュッセルドルフの日本総領事が数回ケルン大学を訪れ、俄かに日本との交流が活性化しつつあります。日本への関心を 高め、Japanologie志願者を増やすためには、ギムナジウムの段階から日本語を選択科目として採用する 必要があるとして、日本語教師養成コースを設置するよう働きかけています。NRW州の文科省に申し入れ、ケルン大学に新たなBachelorコースが設置される ことになり、日本研究所のEhmucke教授が新カリキュラム作成を始めています。Freimuth学長一行の2010年3月訪日計画も、この流れと関連していると思われます。
日本文化会館の役割も変わりつつあるのでしょう。かつての日本の伝統文化を紹介する催し中心から、現代の日本文化と日本社会の実情(光と影)を伝える企画が多くなったように感じます。前衛芸術の展示も積極的に行っています。無料映画会が継続的に開催され、黒沢明や鈴木清順など日本を代表する監督作品 シリーズのほか、水俣や沖縄の70年代白黒ドキュメンタリーなど深刻な事実を突き付けるものもありました。私も日本にいるときには滅多に触れることのない世界です。上田浩二館長に伺ったところでは、会場を訪れるリピーターの目は肥えているので、在り来たりの 企画では満足を得られず、日本の負の側面をも抉り出し、過去も含め現実の日本を提示するよう配慮しているということです。面白いことに、大学の同僚外国人を誘って何回か見たうちで最も受けたのは、意外にも山田洋次監督の「寅さん」映画でした。下町の特殊日本的な情緒の中での最も日本的な義理と人情の喜劇の世界が、ギリシャやドイツや中国の若き法学者の心を動かし、涙を流して大笑いしていたのです。会場の聴衆も泣きながら喜んでいました。そう、寅さんはインターナショナルなのです。
日本文化会館で11月に行われた“Alter”(老い)をテーマとする日独シンポジウムも興味深い催しでした。両国の直面する少子高齢化社会の問題を多角的に分析提示し、よわい・とし・おい・生と死、成長と成熟、等の概念と実情に学際的に切り込んでいました。「60プラス」や「若い老人」という最近のドイツ広告界の新戦略や、葛飾北斎の70を越えての成熟が語られ、年齢に対する先入観を削ぎ落とされた思いです。もはや、両国の異質性の強調・比較から、人間の共通性を前提とした協調・提言に移行していると言えるでしょう。なお、日本文化会館には、アルムニ会の会報を 置いて、閲覧に供してもらうことにいたしました。
以上、きわめて個人的な生活体験の記述と主観的な感想に終始してしまいましたが、ケルン・アルムニ・クラブ会員の皆様のケルンの記憶と郷愁(Heimweh nach Köln)を呼び起こすよすがとなれば幸いです。

久しぶりにアクセスし、読んでみましたが、時代を反映して自分で読んでも結構面白いですね。もっと広く読んでもらい、感想ないし連想することを書いてもらいたいと思います。
2009年9月の記事:サマースクール
<9月初めに、かつてHanau教授の下で学位を取得した米津先生の引率で、中央大学の法科大学院の学生グループがケルン大学を訪れました。労働法を中心にオランダ・ドイツの社会事情と法実務を学ぶことが主目的です。私も、受入れ側のHenssler教授の依頼により、ドイツの司法制度の現状について簡単なレクチャーをして協力しました。>
このときのHenssler教授が米津教授の招聘で来日。御茶ノ水に来訪したので、明治大学の学内レストラン椿山荘で昼食会を企画、ケルン・アルムニ会の歓迎会を開きました。