ケルン―40年の変化:荒川恒子会員

2008年10月発行・会報第8号に掲載された、荒川会員の講演会の記録を掲載します。

「ケルン40年の変化」荒川恒子会員 山梨大学名誉協教授

1 はじめに ここにおいでの方々には、ケルンにいらしたことがあるという点で共通の話題があると思います。本来なら、写真などを持参すればよかったのですが、とりあえず「あそこは知っている」とか、「知らない」、「今度行ったときにみてみよう」と思われるようないくつかの場所を紹介してみたいと思います。

2 女子寮 私は40年間ほどドイツと日本を往復しているのですが、最初にドイツに行ったのは1968年のことでした。学生として3年間ドイツにおりました。住んでいたのは、当時の区分によればKöln 1という街の中心で、リングの少し外側のところでした。SalierringとSachsenringの間にあるEifelstr.を上って脇に入るKaesenstr.という非常に静かなところでして、まあそんな通りのことはどなたもご存じないでしょうが、近所にVolksgartenがあります。とてもきれいな庭園です。そのKaesenstr. には有名な女子寮があり、当時は皆が知っているところでした。そのころの女子学生には、学生寮以外に住むということは考えられませんでした。良家の子女がアパートに住むなどということはありませんでした。またこの寮では個人部屋に男性を入れてはいけないという厳格な規則がありました。大学のDAAD留学生担当の方からその「Kaesenstr.のHelfta-Kollegに入りなさい」というご指導をいただいて、私はそこで3年間暮らしました。そこからKöln-Südという駅を通りまして、大学の本部のある建物に通いました。確かその1階に法学のFakultätやInstitutがあり、4階にMusikwissenschaftliches Institutがありました。それは今日まで変わっておりませんから、たぶんここにおいでの多くの先生方は、その建物の中を行ったりきたりされたのではないかと思います。そこまでは、寮から徒歩で20分ほどかかりました。その道筋には何もなくて、今から考えるとよく生活ができたと思いますが、当時は不自由だとも思いませんでした。また私はRheinische Musikschule というところで音楽の実技を学んでいました。大学から寮とは反対側にあるVenloer Str.を通ってVogelsanger Str.にあるRheinische Musikschuleにさらに20分ほど歩いてレッスンを受けに行きました。どこへでも歩いて通いましたが、大変だなどとは夢にも思っていませんでした。いまその辺りを歩いてみると、昔とちっとも変わっていません。その周辺だけをみると、ケルンは全く変わっていないという感じがするかもしれません。

3 学生生活 女子寮では、最初はドイツの方と2人部屋で過ごしました。そこでドイツの生活習慣を見習うことができたわけです。学生たちはとても質素な生活をしておりましたが、みなさん週末になると、自宅に帰っていました。そして自宅から山ほど食料をもってきてくれるのです。ドイツの家庭料理がどういうものなのかということを実感しました。また私が帰国ということになったとき、それらの家庭に招待されました。それが実に立派なお宅で、びっくりしました。彼女たちは、堅実なお宅のお嬢様方だったのです。私たちの時代は、女性が大学に通うという例はまだまだ少なくて、特別な家庭の子女だけが大学で学んでいたのです。男性の方は、後の仕事も考えてのことだと思いますが、割合とふつうの家庭の息子さんでも大学で学んでいたようです。私たちの学生寮でのおしゃべりの内容というのは、だいたい「男女平等」、「私たちの将来」、「家事と仕事の両立」、ということで、そういう話をたばこの煙に包まれながらしていました。そして本当に男女平等の生活を目指すと約束をしあって別れました。しかしそういう生活を貫徹しているのは、私だけです。

4 社会の変化と友人たち さて、この40年間というのがどのようなことを意味するのかを、今回お話をするにあたって少し考えてみました。私は、帰国後も当時のドイツ人の女友達、日本からの留学生でドイツに職や伴侶を得て残った人、帰国した人々とほとんど毎年会っています。大概の人は、理想とは別に結婚し、家事をこなし、ご主人をたて、仕事をしながらもよき主婦になっています。彼女たちは、あの学生の頃の勢いはどこへ行ってしまったのかと思うほど、ふつうの生活をしています。残念ながら1人離婚しました。恋人はできたけれども結婚しないで働いているという方もいます。ただ、何もしないで家庭の主婦になっている人はいません。子供たちが生まれ、私は彼らが生まれたときから大人になるまでの様子をみていたことになります。女友達は、大学教育を受け、仕事もし、ある意味では開放された考え方を持っている人たちであり、教養の程度も高く、社会の新聞沙汰になるような様々な出来事から無縁です。しかし、この40年間の社会の変化や問題は、どこの家庭にも、どんな境遇の人にも影響を及ぼしているのだということをつくづくと感じます。両親ともにアカデミカーであるにもかかわらず、どうしても子供が大学に行きたがらない、肉体労働につきたいとか、親の知らないうちに結婚してしまった、結婚はしないで子供をつくりたいと言っているとか、現にそういう形でおじいちゃんおばあちゃんになっている人もたくさんいます。それから原因不明の病で苦しんでいる方、子供のことで大きな悩みを抱えている人、子供がホモとかレズというのは当たり前のことです。両親ともごく普通の家庭で、放任したわけでもなく、心を込めて育ててきたのに、次の世代になると、いまの社会現象がそのままそれぞれの家庭に起きているのです。両親を老人ホームに入れるか、自分の手で見守った方がよいか、お墓を建てた方がよいのか・・・、

私と同年齢層の方々の中ではいまや「火葬に付すのがよい」という考え方が非常に強く、友達の中にも「私は絶対昔ながらの土に帰ることはしたくない」という人が増えています。私は「日本では火葬は普通よ」と話したりしています。またこの頃は手紙やカードではなく、メールで情報交換をすることが多くなりました。○さんがガンになったとか、○さんが椎間板ヘルニアになったとか、情報が入ってきます。この40年は、私たち自身の生活にも変化をもたらしているのだと感じています。

5 ケルン中央駅 2000年以降にケルンにいらした方はここにおいででしょうか。2000年にHaupt Bahnhofが、構造的には以前と同じなのですが、もっと広がって、プラットホーム数が11になりました。また全体を覆うガラスの屋根ができました。何よりも私たちが楽しみにしていたのは、その中に70の店舗が入ったことです。旅行者にとっては非常に助かるし、また旅行から帰ってきて日常生活に戻るためのいろいろな買い物は、駅でできてしまうのです。駅舎は非常に便利に、そしてスマートに建て替えられ、よい機能をもっていますから、是非一度行ってみてください。フランクフルトの空港に降りたってからケルンの中央駅まで、いまは特急電車ICEが1時間で運んでくれます。しかしとても残念なことに、以前はライン川沿いにかわいらしい町を左右に見ながらゆったらゆったりとケルンに行ったものですが、今は何も見えません。ほとんどはトンネルの中のようなものです。山の中にスッと入るか両側に騒音防止の塀がある、つまり急いで行けるというそれだけなのです。おもしろみはなくなったけれど、身体は楽というように変わりました。

6 ケルン・ドーム もちろんケルンの駅に降り立てば、ドームがいやがおうでも見えてきます。駅からドームをつなぐ階段が美しくなりました。去年、ずいぶん長い工事期間の後に完成しました。緩やかな階段で、その辺りには若者が座ってのんびりとしております。そこを上ってケルンのドームに入るわけですが、ドームに関しては今年とても大きなできごとがありました。それは、南の翼の部分にある窓が、以前はただのガラスでしたが、ケルンの画家Gerhard Richterに依頼して美しいステンドグラスに変わりました。8月25日に完成したとのことでした。司教さまに言わせれば、大反対なのだそうです。それは、四角いパネルをはめ込んだ抽象画のようなもので、Richterは画を描くときにも、さまざまな色をちりばめるという手法を用いているのです。要するに聖人画ではなくてただのモザイク画なのです。その点で司教さまは大変にご立腹、しかし一般市民には、ものすごく好評ということです。というのは、Richterは、自分がやりたいと考えているふだんの画風を、ただそのまま取り込んだのではないのです。ドームに中世からあったステンドグラスに、幾色使われていたかを研究し–80色使われていたそうです–その色をこの小さいモザイクの中に埋め込むために、どういう順番で組み立てればバランスがよくなるかを考えて、コンピュータで作業をしたということでした。そういうことで、できあがったものについて、私が大変気に入ったのは、そのステンドグラスを、ほかの部分と全く違和感がなく、実に美しいものとして捉えることができたことです。ちょうど朝見に行きました。ふだんはキリスト教とは縁遠くなってしまっている友人でも、そのドームについてはすごく関心があって、「あれだけは見なくては」と言われて出かけたわけです。光が差し込むと非常に美しいのです。このステンドグラスもごらんになったらよいと思います。

7 ケルン中心街 ケルンの中心街というと、SchildergasseHohe Str.ですよね。これはおもしろくなくなりました。Schildergasseには大きな、要するにチェーン店のような、どこの街にもあるような店でないと出店できなくなっています。なお街の角々に表札のかかっていた弁護士事務所も開業医の診療所も保てなくなっています。今では何人もの弁護士や医者が共同で大きな事務所や診療所を開業するという形になっています。

Schildergasseには「ここぞケルン」というものがなくなりました。その代わりに、もしかしたらご存じかもしれませんが、まだKarstadtというデパートが残っていて、その裏手にSchildergasseと平行して、これも長い年月をかけて改装したEhrenstr.Breite Str.と続いて行く通りがあります。ここにはとてもかわいらしいお店がたくさんならんでいて、ぶらぶら歩くなら「こちらの方がよい」という感じです。通りに机を並べてビールを出したり、週末になるとがらくた市がでたり、街らしい様子は裏手の方に移っています。

8博物館 ドームをリヒターのステンドグラスのついている南の出口からでると、これも、私の学生時代にはなかったことですが、Römisch-Germanisches Museum(1974年に開館)というローマ時代の遺跡を基にしたケルンならではの博物館に行き当たります。ケルンをご案内するなら、ドームとRömisch-Germanisches Museumがよいかなと思います。

さらにその隣に、これがケルンだと言えるような建物があります。完成したのは、1986年のことですから、みなさんもごらんになったかもしれません。いまではMuseum Ludwigという名前がついていますが、完成時にはWallraf-Richartz Museumという名前でした。Wallraf-Richartz Museumというのは、私の学生時代に既に存在していましたが、場所も建物も違っていました。ドームの前をHohe Str.の方へ向かって行くと、右手にWDR(西ドイツ放送教会)の建物があり、その建物に沿って右に入ると、鬱蒼とした木陰の中にそのWallraf-Richartz Museumはありました。そこでよくコンサートなども開かれていました。中世から現代に至るまでの美術品がたくさん収蔵されていました。それがあまりにも規模が大きくなってしまったので、どこかに移すべきだということになって、ライン川沿いでドームとライン川の間に建てようということになったわけです。その建設に際しては、最初から現代美術と中世から印象主義までの美術を2分することが決まっていたということです。2つの建物ができるまで1986年にできた建物の中で中世から現代までの美術を見ることができたわけです。私は大変に楽しく見ておりました。ところが2001年にもう一つの建物が完成し、そのライン川沿いの建物は、Museum Ludwigという名称になり、ポップアート、すなわち、現代美術だけを収蔵するMuseumになったのです。実は、これがすばらしいコレクションでして、アメリカ以外でこれだけのポップアート、現代アートを有している美術館は、ほかにないのです。新しいものに対するケルンの方々の興味というものは、すばらしいと思います。私もよくこのMuseum Ludwigに行きます。

またケルンは中世から実に立派な画家を輩出してきました。ドームの中でStephan Lochnerの聖母像をごらんになったかと思います。ケルン派という絵画の歴史がありWallraf-Richartz Museumはそういうものをたくさん収蔵していました。それはどこへ行ったのかと言いますと、市役所とGürzenichの間にもうひとつの建物が建てられたわけです。そこに行くと、中世から印象派までのものを見ることができます。周辺は、また歴史的にとても大切なところで、市役所、その向い側に香水の博物館があります。Farina Hausですね。そしてさらに道を隔ててStephan Lochnerの中世の工房跡があります。

9 日本文化会館 私の学生時代が終わって、日本に帰ってまもなく、すなわち1969年にできたのが、Universitaetsstr.のJapanisches Institutです。その隣にOstasiatisches Museum、これは以前Hahnentorの上にあったものが移設されたのです。しかし、こんなによいロケーションにあるにもかかわらず、十分に機能していません。とても寂しいことだと思います。でもJapanisches Institutでは、9月から10月にかけて日本の映画祭を開催します。そこでとてもおもしろい作品、すなわち、私も見たかったけれども見ることができなかったような監督シリーズとか名作を上映しています。今年もそのうち何本かは見てきました。また文化庁が派遣する雅楽とか能楽というのも、ヨーロッパに行きますと、だいたいケルンにも寄ってくれます。それはそれでよいのですが、あとはほとんど閑古鳥状態です。こんなによい場所にあるのだから、もう少しなんか活動すべきではないか、Ostasiatisches Museumの展示にも、もう少し力を入れたらよいのではないかと思います。それでも一応機能しています。ベルギーのInstitut フランスのInstitutやBritish Councel等と比べるとまだ機能しているのかなと思います。

なおJapanisches Institutの対岸にある大学の裏手の芝生のところには、広島・長崎パークという名前がついていました。私は今年初めてそれに気がつきました。

10 音楽界 ケルンのLindenthalの地域を歩き、大学の周辺にいて大学と自宅の間を往復している限りにおいては、それほど世の中が変わった、街が変わったという気持ちはもっておりませんでした。自分の住んでいる世界は狭いですから。でも40年を振り返るというので、何か新しいことはあったのかと、あわててケルン関係のホームページを繰ってみました。そうしてみると「少し変わってきたなあ」と思うことがあります。私自身の専門とも関わって心配していたことなのですが、クラシック音楽の衰退です。音楽会での聴衆数が少なくなっているようです。私自身もさまざまなイベントを企画するのですが、日本の聴衆の減少について、ここのところはっきりと「何とかしなくては」と思っています。これは私の周辺のみに生じている現象なのか、日本中に、またヨーロッパでも起きている現象なのか心配でしたので、今年はとくに気をつけておりました。ここのところ「そう言われてみれば」と思うことがあります。私はだいたい夏にドイツへ行くのですが、9月というのは楽しい時期です。というのは、ご存じのように9月になると街中の円柱に音楽会の広告がでるので、「あれだ、これだ」と関心を持つわけです。いまはインターネットで見ればよいかもしれませんが、ネットがなかったときは、いつもその円柱情報でオペラは、コンサートはいつから始まると楽しみにしていたわけです。その広告が大幅に減りました。「なぜなんだろう」と不思議です。他方、若者向けのイベント情報はたくさんあるのです。

私の学生時代には、ケルンはたとえば、古代ローマ時代からローマ人が作った街であるとか、中世の街の姿をよくとどめていると言われていました。私ども音楽家にとっては、ケルンはそれほどおもしろい街ではないのですが、正木光江さんも私もケルンに留学したのは、大学の音楽学という学問のInstitutが非常に大きいからです。ケルンの芸術活動一般が非常に盛んというわけではありません。ただ一つ、WDR、西ドイツ放送協会に電子音楽スタジオがあるということが、ケルンは新しいことに積極的であるという印象を私たちに植え付けていました。ケルンという街は、歴史を背負った街だけれど、実は非常に新しいものに対して、関心を強めている街ではないのかということです。

11 音楽会場 Museum Ludwigの隣が、Philharmonieという音楽会場で、これも1986年に建てられました。それはAmphitheater、すなわち古代の円形劇場の形を模しています。いまヨーロッパのコンサート・ホールは、だいたいこのような形になっています。これは非常に成功した建物でして、ここで聞きにくいのは、前列の端の1人か2人だけです。あとはどこに座っても非常に聞きやすいのです。私たちが学生時代には、音楽会はGürzenich というところで開催されるものや美術館や教会でやるものでした。私は音楽は、コンサート・ホールでやるものだと思っておりましたので、ちょっとびっくりしました。しかし今考えると、当時ヨーロッパではコンサート・ホールを造る余裕がなかったのではないでしょうか。コンサート・ホール建設が良いことなのかどうか、ちょっと考え込んでしまいます。昔の音楽会場は、「聞きにくい」、「端になってしまうと見えない」などの難点がありましたが、とてもアットホームな感じがありました。しかし最近のホールは、いかにも機能的で目的にはあっているけれども、音楽をするひとと聴衆の間に隔たりを作ってしまったのではないかと思います。また新しい会場の方が使い勝手がよいので、なんでもそこでやりたいということになり、今までの小さい会場での楽しかったコンサートというのは数が減ってきたと思います。

12 オペラ・ハウス それにしても、久しぶりにオペラを見たいという気持ちになりました。9月の末でしたから、オペラが上演されていました。日曜日のマチネーですね。プログラムは、ヘンデルの《ジュリアス・シーザー》でした。実に名曲なのですが、会場はガラガラでした。とても寂しい思いがいたしました。学生時代にはオペラというと、自分の持っている服の中でもちょっとよいものに着替えて真珠のネックレスをすれば大丈夫という感じで、バルコニーのあたりをぶらぶらと歩いて、「大人になったら、休憩の時間にシャンペンの一杯くらいはもって歩きたい」などと考えていました。しかし、いまそれはできないのです。休憩時間になっても下に降りていって「ビール下さい」という程度で、美しく着飾ったご婦人たちをうっとりと見て、「私もいつかは」という気分に浸ることができなくなりました。なぜなら、そこにヤクルト・ホールというのができたからです。「ヤクルト・ホールとは何だろう」と、疑問に思っていました。日本のヤクルト、すなわちヤクルト・レディーという人たちがドイツのス-パー・マーケットの前で「ヤクルトはいかが」と試飲を薦めていたのを見たことがあるのですが、これは失敗したようでした。しかしそのヤクルトが、オペラ・ハウスの中に小さいヤクルト・ホールを構えたわけです。子供向けにわかりやすいオペラを上演したり、オペラの解説をするために使われているということでした。とてもよく利用されています。それはそれでよいことなのだろうと思いながらも、あのぶらぶらと散策する、ちょっと日常から離れた世界の雰囲気を味わうということがなくなってしまったことを寂しくも感じます。オペラを見に行く人も少なくなってしまいました。やはり「時代は変わってゆくのだなあ」と感じます。ちなみに、オペラの入場料は、昔とあまりかわりませんでした。ほかの街の入場料が少し高くなっていたので、感心しました。一番安い席ですと10ユーロくらいです。

13 若者の音楽 秋になっていつも円柱を見ていましたが、自分の好きなプログラムがあまりかからなくなったので、「この街もつまらなくなったのかしら」と思っていましたが、若い人たちはケルンがよいと言うのですね。何がよいのか、実は私はわからなかったのです。最近になって、ようやくその意味がわかってきました。ケルンのドーム側の出口ではなくて、反対側の出口からでるとBreslauer Platzにぴかぴか光る建物があるのです。そこにいつも大きな広告がでていて、「あれは暫定的なものかしら」と思っていましたが、そうではなくて1996年つまり、いまから10年ほど前にミュージカルを専門に上演するMusical Domというのができたのです。ここは、若い人たちが非常に行きたがるところです。

さらにもっと大きな評判をよんだのは、1998年に建てられたKöln Arenaという多目的ホールです。Köln Deutzという駅で電車を降りるとすぐのWilly-Brandt-Platzにあり、ドイツで一番大きな多目的ホールなのです。ここではスポーツもやるのだそうですね。それから大きなロックコンサートや政党の集会などありとあらゆるイベントが行われています。今や若い人たちが口々に言うのは、ライン側の東側、すなわち、左岸ではなく右岸に行こうというのです。右岸に行けば、おもしろいことがたくさんあるというのです。

私の学生時代に既に、リングにカフェ・パリという有名なディスコがありました。実ににぎやかでごみごみしたところで、みんなが踊るのだと聞いて、「絶対に行ってみなければ」と、初めてディスコ体験をしたわけです。ディスコはいまでもケルンでは非常に盛んで、友人の子供たちはディスコを楽しんでいます。

14 メディアパルク 以前から気になっていたところで、MediaparkというのがHansaringにあります。これは以前貨物駅であったGereonのところに建設されました。巨大なスペースと高い美しい塔があり、何だろうと思っていたわけです。Mediaparkというのだから、きっとメディアと関係するものがいろいろとあるのだろうと想像しておりました。私がそこに行ったのは、日本人のすばらしい写真展示会があったからです。またそこは、文学にも大変寄与しておりまして、著者たちが自分の本について話をするとか、メディアに関するあらゆるものを学ぶコースがあったり、たくさんのホテル、レストラン、大きな映画館が共存しています。若い人たちはMediaparkに行くのだということを改めて実感しました。以前のようにオペラとコンサートというような狭い範囲ではなく、メディアや新しいポップ系の音楽や美術に対して盛んな活動がなされているのがケルンです。

私が関心を持って勉強してきたことは、時代とともに少しずつ失われてきているようです。しかしケルンという街は、さまざまな新しいものを前向きに取り入れているという感じもいたします。次に行くときは、Musikal DomやArenaにも行ってみようかと思っています。

(追:目下急ピッチで開発が行われている場所があります。ライン川沿いにぶらぶら歩いて楽しいのは左岸で、HohenzollenbrückeDeutzer Brückeの間位まででした。それがSeverinsbrückeからSüdbrückeの間、以前ライン川が港として交易に従事し、税関があったところに、多くのモダンなギャラリーができつつあります。新しい美術の動きなどが発信されるようになるのかもしれません。一般のひとから敬遠されていたBayenthal地域の地価の高騰が話題となっている昨今です。)

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